鮨職人 遠藤和年さん endo at the Rotunda      コロナとの、戦いと、挑戦と 

2020年3月。
イギリスは、大きなコロナ感染の渦に巻き込まれた。

ロンドンで、寿司レストランのシェフを務める遠藤和年(エンドウ カズトシ)さんは、
自らの店が、自粛に追い込まれる状況にも関わらず、

医療従事者や、生産者を助けるために、日夜、奔走する。

この、数ヶ月間の、歴史的な出来事の最中、
鮨職人として、
遠藤さんは、一体、どのような体験をされたのだろうか。

これまでの人生観が、
このコロナで、大きく変わってしまった、と話す
彼に、お話を伺った。

 

*****

水曜日、午前11時半。
遠藤さんが、電話口に出られた。

コロナの自粛もあり、しばらくは、お店にも伺えず、
テキストでのチャットを、何度かさせてもらっていただけだったので、
直接、お話するのは、久しぶりだった。

人をぐいぐい引き込む、
力みなぎる、エネルギーの人。
いつもはそんな風の遠藤さんだが、
この日の、電話越しの声は、
思いの外、
ひっそりとした、低音のものだった。

今回のコロナの事態の最中に、
率先して、方々で、
人々の救済に走られていた彼の事を、
文字にして、どこかできちんと残しておきたい。
その趣旨をお伝えして、インタビューを申し込んでいた。

実は、海外メディアのインタビューが、昨日あったんですよ。
 でも、ほとんどの質問内容は、私がイギリスに来る前の寿司職人としての修業についての事でした」

噛みしめるような、低い静かな声。

この、コロナでの戦いで、話し切れていない事がある。
長い、自分との葛藤、戦いでもある、この数ヶ月間のことを、
今から、どうやって、話せばいいのだろうか、という、
“重み”が、
その声から、じんわり、滲み出てきていた。 

イギリスでは、
自粛を通達された業種の従業員には、
80%の給与補償がすぐに出され、
すべての飲食店は、クローズした後、
それぞれの、状況へと突入した。

これまでの優良経営や、潤沢な資金がその時点ではあることから、
まずは、店を閉め、しばらく静かに状況を見守る店。

国の補償だけでは、十分でないため、
唯一できる、テイクアウトをスタートし、
幾分かの足しとして、ギリギリでも経営を続けている店。

そして、もちろん、
クローズに追い込まれ、閉店を余儀なくされた店。

一番最初の質問にするべきではなかったのだけれど、
私の問いかけは、なぜか、ここから始まってしまった。

「遠藤さんは、この事態で、お店は補償はうまく受けられたのでしょうか?。。。」

素晴らしい立地と内装でスタートした、
しっかりとしたパートナーがバックに控えた店。
余裕があるからこそできた、救援活動だったのでしょうか?
そういったニュアンスの、変な意味に聞こえなかったか、少し心配になったのは、
もう、質問を口にした後だった。

「この今回の、全てのボランティアの事は、実は、パートナー経営陣には一言も相談しないで、
私が勝手に全部決めて、勝手に動いたんです」

まさか … … 。

「でも、後からこれを知ったパートナーは、ありがとうエンドウ、と、非常に喜んで、感謝してくれました」

遠藤さんの、遠藤さんたる所以のお話が、
この後、1時間半に渡って、
途切れる事なく、ほとばしり出た。 

恩返し 

最初のミシュランの星 を2019年10月、オープン後5ヶ月半にして取る、という快挙を遂げた後から、   
遠藤さんは、自分が、これからすべきことは、社会的貢献なのじゃないかと、考えるようになったと言う。 

そんな中、2月になり、日本でもコロナの感染がじわじわと広がりはじめた。
イギリスにもいずれ、感染は大変な波となってやってくることを、すぐに感じ取り、
その時がきたら、自分は何をすればいいのだろう、と、考えはじめる。

3月23日、イギリスはついに、ロックダウンとなった。
飲食店にも、休業の要請が発令された。

その日から、1週間。

「本当に、毎日、毎日、このことばかりを一日中考え続けていたんです。
鮨を握る職人として、自分が出来る事、やるべき事。。。 
でも、この時は、まだ、何をすれば良いのか、見えなかったんです」

ヨーロッパ各国は、この頃、まさに戦場のような事態となる。
国によっては厳しい警察による取り締まりが導入され、
病院は受け入れ許容数をこえて圧迫し始め、
1000人に迫る死者数が、日々、報告される。
これから、どうなってしまうのだろうかという、不安が、自分たちのすぐそばにあった。 

「チェルシー&ウエストミンスター病院に、お医者さんの知り合いがいるんです。
彼から、医療現場で働くスタッフは、本当にみんな大変で、食事をする暇もない、という話を聞いた時、これだ!と思いました」

***

横浜の寿司屋の三代目として生まれた遠藤さんは、
日本で高名な鮨職人の元で厳しい修業を積んだ後、
2007年に、渡英した。
その後、現在に至るまで、
ニューヨークやドバイ、香港にも仕事で暮らしたが、
自分を育ててくれた、鮨職人にしてくれたのは、この、イギリスだ、という思いが強いと言う。

「自分は、ロンドンに育ててもらった。感謝しかない。この、恩を、どうにかして返したい。。」

巻き寿司を、医療従事者の方々へ配ることを思いついた。
鰻、出汁巻き、干瓢が入った、立派な太巻きが、4切入っている。     
その翌日から、すぐさま、作業に取りかかった。

「4月は毎日、150〜200箱、お配りしていました。
バークレーホテルでは、警察の方や、救急車のスタッフが、ピットイン形式で、お寿司を受け取れます。
たまたま、知らずに入ってきた方も、sushiだと分かって、皆さん、驚きの表情で、喜ばれていました。
5月に入ると、病院での食事が、余りはじめていると聞き始めました。
たくさんのボランティアの方々が、食事を届け始めていたんです。
それでも、お寿司は人気があると聞いたので、
週2回にして、続けました。
トータル数ですか?  数にしたら、何個でしょうか。 結構多いと思います(笑)。。。。」 

単純計算で、6月の末までで、レストランendoから、9200箱の巻寿司弁当が配られたことになる。 
現在もまだ、この巻き寿司の配布は続けている。

「この頃から、次は、お客さんへの恩返しだ、と、思い始めました」 

お弁当を受け取って涙を流すお客 

「テイクアウトの、あの、お重弁当は、私のお客さんへの感謝の気持ちを表現したものなんです」 

・・

レストランが閉鎖した後は、
食べ手にとって、日々の食生活が、否応なしに、すっかり変わってしまった。 

スーパーの肉類棚が、空っぽだった時のことを、皆、覚えているだろうか。 
あそこの店には、食材がある、と言う噂を聞いて、
小さな、ガソリンスタンドに併設されているスーパーへ足を運んだり、 
並ぶ時間の短いタイミングを狙って、買い物をする。 
今まで、買ったことのない缶詰も、かろうじて棚に残っているものをカゴに入れたり。
オンラインショッピングでは、待機人数が、”あたなの番まであと5600人です”、と表示される画面を、朝6時に見つめたり….. 。 

いざ、自粛になって、子供との自炊やお菓子作りを楽しみつつも、
1、2週間たつ頃には、少しづつ、何か、物足りなさを感じ始める。
プロの手による、目利きのされた、食材。
シンプルでも、手間暇のかかった、料理を、渇望し始める。
そんな生活が、1ヶ月近く続いていた。

そんな折、ついに、遠藤さんのテイクアウトお重弁当が予約できると、SNS上で発信された。

もちろん、激しい争奪戦となり、1時間で完売となる。
予定枠の1200個は、瞬く間に埋まってしまった。                     

グルメフードへの熱は
やはり、まだ冷め切っていない。
さらに過熱している、という証、だろうか … 。 

「でも、今までの何かが、変わってしまったんですよ」

遠藤さんが、会話の途中で、言った。 

なんとなく、その意味が、分かる。
そして、あまり、今の時点で、この事を言う人はいないけれど、
きっと、同じ思いをしている人も、少なくないんじゃないかと思う。

何か、熱に浮かされていたような、白昼夢のような熱狂が、
この事態で、霧がさっと引いた様な感覚。
あとに残された現実は、
もっと、鮮明で、よりリアルで、
それゆえに、残酷までに現実的で、虚無感が漂う。 

ハッと、我に帰った、気がする。 

それから、思う。

食の、本質は、なんなんだろう。。。  

遠藤さんのお重弁当を、
これまでの熱狂の延長線上で、捉えている人も、実は、多いのかもしれない。

でも、遠藤さんの店、お寿司が
単なる、美食だけではないという食べ手も、数多くいた。
そんな人達にとっては、
彼のお重弁当を手にすることは、
単なるグルメテイクアウトを超えた、別の深い意味をもっていた。  

「まさか、本当に私が、自ら、お弁当を届けるとは、思っていらっしゃらなかったみたいです。」

受け取る時に、涙を流す人たちが、何人もいたと言う。 

テイクアウトのお弁当を受け取って、泣くという、そんな現実を、
どうやって、心の中で整理すればいいのだろう。 

「私が皆さんの顔を見たかったんです。 
会って、お互い、元気にしています、ということを、確認しあえれば、それが、喜びになると。。」

***

食べ物を超えた、“カタチあるもの”  

お弁当は、二段仕立てになっている。

和柄の風呂敷を解くと、上段は、ばらちらしで、熟成を効かせたスズキや鯛のほか、鰻、大トロ、和牛、ロブスター 、牡蠣、といったオールスター食材が、大胆に、ふんだんに織り交ぜてある。
玉子は、これぞ!と叫びたくなる、寿司職人の技が凝縮されていて、まるで日本にいるかのように味の記憶が蘇る。
いかにも、遠藤さん、レストランendoらしい仕立てとなっている。

そして、それらのネタに劣らず、心を掴むのが、なんとも味わい深いシャリだ。
噛み締めるほどに、甘みと柔らかな風味が広がって、後々まで長い余韻を残す。
心が慰められるような、慈悲深い、米の味がする。
秋田の米農家さんに、何年も懇願し、田植えも手伝った後、ようやく認めてもらい、特別に栽培してもらっているというお米。
魂が宿る。 

特注木箱の下段は、レストランでも提供されている厚切りレア和牛のサンドイッチのほか、マグロの太巻き寿司が整然と並ぶ。
アスパラガス、キャベツ、人参、きのこといったシンプルな野菜なのに、それぞれが、驚くほどの生命力に溢れていて、すこぶる、生き生きとした味わい。
鮮烈に、田舎の、緑が、脳裏に浮かび上がるほどに。。。
そして、山椒の実が、全体を引き締め、程よく和にまとまっている。
さりげなく、主張しない面持ちで、ふと、キャビアの小瓶が、隅に潜んでいる。 

 

全てのお弁当に、遠藤さん直筆の手書きメッセージが添えられてある。

かなりの食べ応えがある上に、これだけの高級素材も使われて、一人前70ポンドというお値段。
売り上げの15%は、チャリティーに寄付しているという。
どう考えても採算を度外視しているとしか思えない…。
 

「このお弁当を通じて、私がやりたかったのは、三角形で、みんなをつないでおくことだったんです。
レストランが閉まってしまい、生産者、サプライヤーの方々が、どうにも、立ち行かなくなってしまっていたんです。
このままでは、本当に、皆、つぶれてしまう。
私が続けて買っていくこと、それが、彼らへの責任だと思いました。
私がお願いして、特別に仕立ててもらっていた食材もありましたから。


そして、もちろん、いつもレストランへ来てくれていた、お客さまへも、何かお返ししたい、という一心です。
そうすると、ギリギリの採算で、お弁当を作る選択肢しか残っておらず … …。
若い衆には、無償で働いてもらうしかありません。
やりたくない者は来なくていい、と告げました。

でも、結局、全員、来てくれました。
みんなで作るから、意味があるんだ、と言ってくれて …。」

いつも魚を送ってくれていた漁師さんの中には、
田舎の漁村ゆえに、情報が行き渡っておらず、
イギリスがロックダウンされたこと、レストランが閉まっていることすら、知らない方もいたそうだ。

「エンドウ、どうして、みんな魚を買ってくれないんだ。。。」

涙を流して、そう話す漁師さんたちを救うため、遠藤さんは、身を削るような努力を何日も、何日もひた続けた。
これまで、何世代にも渡って、稼業で漁師をやってきていた人たち。
船を海に出して、その魚を売ることでしか、生きる道がない、という人たちが、
まさに今、追い込まれていた …. 。

強烈な葛藤が襲い、肉体的、精神的にも限界に近い疲労を感じた。
遠藤さんは、なんとか、彼らの魚を買い続けた。
それでも、半分ほどの漁師さんが、続けていくことができなくなったという。

レストランendoの料理を支えているのは、もちろん、魚だけではない。
寿司と同じくらい、スペシャリティーと評されている、宮崎牛肉を扱うサプライヤーさん。
塩分濃度を、自分の寿司に合うように調整してもらい、さらに、昆布でマリネしてくれている、キャビア業者さん。
トリュフを提供してくれている方々。
英国のイーストサセックスで、丹念に育てられている野菜は、コロナだからと、成長を止めることはない。
ロックダウン前に、イギリスのコーニッシュ子羊の美味しさを伝えたいと、コーンウォールの畜産農家と共に、熟成方法を試していた矢先の、この事態 … 。

ありとあらゆる関わりのある人々が、窮地に追い込まれていた。
そして、そこへも、遠藤さんは、自らを、燃え盛る戦火の中へと身を投じて、救済に向かっていった。 

このコロナの最中に一度、これまで取引のなかった業者さんから仕入れた魚に、違和感を感じたことがあったそうだ。
正直に、これは何か違うのではないか、と伝えたという。
彼からの回答は「こんな時だから、いちいち構っていられない」というものだった。
遠藤さんは、「それは違うだろう」と、少し、声を荒げたそうだ。 

遠藤さんのこの怒りは、
愕然とした悲しみから来るものなのかもしれない。 

彼を支え続けているのは、
核にある、
真っ当なものへの、敬意と感謝だ。

そして、何よりも、
人とのつながりだ。

どこまで追い込まれても、
決して妥協はしない。
諦めない。
戦い抜く。
守り抜く。  

この壮絶な決意は、
いったいどこから来るものなのだろうか。  

「何のために、自分が店を開いているんだろうって、自問し続けていたんです」

覚悟

「3年前に父が亡くなったのですが、両親には本当に厳しく育てられました」

横浜の老舗寿司店の暖簾を守るご両親からは、三代目後継として特別厳格なしつけと教育を、幼少の頃から受けてきた。 

小学生の遠藤さんは、茶道、書道、日本舞踊のお稽古に通い、歌舞伎鑑賞も定期的に“義務化”されていたそうだ。

「母は、これらを会得する時間を捻出するために、小学校と直談判もしました。三代目として育てなければならないんです、と言って(笑)」

長男として課された責任を背負いながら、大学進学は許されたが、卒業時には、寿司屋になるか、自分の好きな道を選ぶかという選択を迫られた。
「家を継がないなら、勘当する。だから、その覚悟で他の道を選ぶこと」という通達。 
22歳の遠藤さんには、家を捨てて突き進むことはできなかった。 

そうして、鮨職人の道を選び、父親の紹介から、有名な職人の元での修業も積んだ。
そんなある時、ロンドンの人気日本食レストランZumaから声がかかった。
イギリスに来て、ぜひ、グループの寿司部門のヘッドとして指揮して欲しい、という依頼だった。
渡英して、いくつかの店舗を見学し、食事をしたが、やはり、自分は日本で寿司を握るのだと感じていた。
最終日の夜、現地で働いている日本人料理人と、深夜まで、語り、飲み交わしていた。
その場で、こんな言葉がかけられた。           

「遠藤さんには、ロンドンの、イギリスの、これからの寿司文化の未来を背負っていただきたいのです」

背筋が凍ったと言う。
これまでは、実家の家業を継ぐことを、自らの天命として生きてきていたが、
この時、託されたのは、海を超えた地、ロンドン、そして、そこから広がる、ヨーロッパという、とてつもない“重責”だった。

体を駆け抜けた、衝撃に後押しされて、
遠藤さんは、ロンドンへ渡る決意をする。

日本へ帰国後、ご両親へ、そのことを告げた。
お二人にとっては、これまでの長年、遠藤さんを後継ぎとして大切に育て上げてきた数々の苦労、期待、様々な思いがあったことだろうが、
父親は「そうか」とだけ呟き、遠藤さんのイギリス行きが決まった。

2007年、遠藤さんは、ロンドンにて、鮨カウンターに立った。

***

尊敬する料理人として、遠藤さんは「The River Cafe」の故ローズ・グレー女史を挙げる。 

遠藤さんの店に来ると、彼女は、
「私はエンドウの寿司しか食べない」と言って、
必ず、彼が立つ、つけ場の前のカウンター席に座り、
美味しい、美味しいと微笑みながら、いつも嬉しそうに食べていたという。

ある時、彼女は、遠藤さんを、ロンドンの超有名店である自分の店に呼んで、
隅から隅まで、説明し、見せて回ったという。
そこで、何よりも彼を刺激したのは、彼女の、並々ならぬ、地元への愛だった。 

地元の素材、地元の生産者…。

「それから1年間、Zumaの休みの日に、彼女の店のスタージエとしてキッチンに入って働きました」

そののち、彼女から言われた言葉が、遠藤さんの背中を、一心に押し続けてきた。

「まず、10年経ったら、独立しろと、と言われました。そして、必ず、ミシュラン の星を取るんだ、とも。そして、自ら、たくさんのことを発信していくこと。自分には、その責任がある、と言われました」

昨年2019年に、ミシュラン の星を取得した際、舞台でのスピーチで号泣した遠藤さん。

「あの時、本当は、彼女への感謝の気持ちを言いたかったんですが、なんだか、泣きまくってしまって言葉がめちゃくちゃになってしまって………..。みんなからも、エンドウ、どうしたんだ?! って、言われましたが … 。 ローズの教え通り、ミシュラン を取ったんだ、と、だた、彼女に伝えたかったんです」

これまでも、激動ともいえる、彼の寿司職人としての人生だが、
今回の、このコロナでの一つ一つの出来事、心を揺さぶった感情は、
遠藤さんにとって、大きな変化をもたらしたと、話す。

「今までとは、すべてが違う」と言う。 

「これまでは、どこかで、誰かがしてくれる、という甘えみたいなものがありました。
あるいは、自分がするのは、おこがましい、というような謙遜も。。。
 
でも、この転機で、自分には、たくさんの責任があると痛感しました。
それから、自分には、やるべき事が、あると。」

それは、何ですか?という私の問いに、

「大義、ですね … …. 。」

遠藤さんは、ゆっくり、でも、何度か繰り返して、言った。

***

このコロナという大きな事態の中で、
すべての人が、
皆、様々な行動をしただろう。

カミュの作品「ペスト」に出てくる
あらゆる職種の登場人物が、
ロックダウンの最中に
みんなバラバラに動き走ったように、

私たちの一人一人が、
違った環境に陥り、
違った行動をし、
違った感情を得た、と思う。

そして、
自分という人間のある一面を、
初めて知った人も多かったのだと思う。

遠藤さんが、
果たして、登場人物の誰なのかは、
彼のみぞ知ることだろうが、
でも、確かなことは、
彼が、料理人という枠を超えて、
人間として、行動をしたことだろう。 

「やっぱり、人は、一人では生きていけないんです」

・・

これから

7月4日の、イギリスのレストラン解禁日以降も、
残念ながら、
まだ、endoは、再開する見込みは立っていない。

しかし、ソーシャルディスタンス、が求められるこの今、
遠藤さんが、この先に求めるのは、
より、皆と、近づくことだ、と言う。

お客と、皆と、もっと深く共有し合いたいものがあるのだ、と言う。

「喜び、 美しさ、  大地、  人の汗、 肌の触れ合い 」

時間をかけて、これまで以上に、
一人ひとりと、じっくり向き合いたいと話す。

このことを、説明するのに、遠藤さんは、恋愛を例えに出して、語ってくれた。
遠藤さんの言う、じっくり付き合う、は、
恋愛と同レベルの、真剣勝負を、意味している。 

食の世界が、
これから、どのように変わっていくのか、
まだ、誰もが計りかねるし、
恐る恐る、前に進んでいるような状況だ。

テクノロジーが席巻するのか?

素材が劇的に変化していくのか? 

それでも、
遠藤さんが、牽引していくのは、
人類が、これまで、何千年も繋いできた、
人と人との、エネルギー交換の場だ

そして、そこに、私たちが、おっとりと勝手に抱いている、未来への無邪気な希望は、
この先、
激しい勢いで変化していく、これからの時代と、
真っ向勝負で、ぶつかりあっていくだろう。
新しい波の渦が、一方を飲み込もうと、牙をむいて迫ってくる。

それでも、
生身の身体の、
生身の心の交流は、
人間としての、尊厳をかけて、
まだ、しばらくは、失われることはないだろう。 

遠藤さんが、
この数ヶ月間、
自らの精神と身体を切り刻んで
私たちに、問いかけたこと。

このコロナの事態で、
突如、私たちが開いた、クエスチョンの箱。

食の本質とは、なんなのだろう。。 

大義を授かった、
遠藤さんは、
遥かとおくの、到達点へ向かって
渾身の力を込めて
今、この瞬間も、全霊を捧げて、

走り続ける。 

・・・

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