麤皮 ARAGAWA ロンドン

昨年ロンドンのメイフェアにオープンした「ARAGAWA LONDON」。未だ、ベールに包まれている、和牛の至高「麤皮 ロンドン」の全貌に迫ります。

密やかに一部の食通の間で囁かれている「ARAGAWA」という名を、もしすでに聞いているなら、あなたはきっと、日本の和牛に精通している方に違いない。ロンドンの洗練されたメイフェアに佇むこのステーキハウスは、昨年10月、東京店と同じスタイルでオープンした。しかし未だ、このロンドン店はベールに包まれていると言えよう。

ARAGAWAロンドン店を噂で知る人にとっては、店のイメージは二つに分かれることだろう。

驚くほどの価格で提供されるステーキの店。あるいは、日本の和牛の頂点を味わえる聖域。

1967年に東京で創業し、フランスの美食家で文学の巨匠であるオノレ・ド・バルザックの同名小説にちなんで名付けられた「麤皮(あらがわ)」は、最高の質を誇る日本のステーキ店の中でも、伝説的な存在として知られる。昨年、この店が、ロンドンの静かな通りに、東京本店と呼応する形で根を下ろした。オーナーの小川光太郎氏は、国外であっても、最高のものだけを提供するという揺るぎない信念を、この数年の間、私に語ってくださった。コマーシャル化され過ぎた今の風潮を避け、開店後も、本物への真摯な姿勢を示し続けている。

この、稀有なステーキ店は、一種の排他的なオーラに包まれつつ、この数ヶ月間は限られた美食家たちだけが味わう場所として在り続けてきた。この記事では、その肉の、料理の、和牛が誇る至宝の如き層を一つずつ解き明かしながら、その類まれな和牛の世界を巡っていく。麤皮を麤皮たらしめるレガシー、それを生み出す職人技、そこにかける真摯な取り組みを探求していきたい。

このステーキの名店と日本の和牛の頂点を理解するために、知っておくべき重要なキーワードがいくつかある。それらを一つずつ、詳しく掘り下げていこう。

第一章: 

和牛の最高峰、純血統但馬種

まずは、なによりも肝心な事から話さなければならない。

肉、について。

海外でも人気の高いWagyu。メニューでもその名を見かけると、特別な牛肉の扱いであることが即座にわかる。そして、価格もそれ相応に反応していることは、皆さんも周知の事だろう。しかし、Wagyuとは、訳せばJapanese cattleであり、日本在来種の牛をベースに交配を繰り返してつくられた牛のことを指す。和牛として認められるのは、「黒毛和種」「褐毛(あかげ)和種」「日本短角種」「無角和種」の4品種と、それらの品種間のハイブリッド。「黒毛和牛」は、そのうち90%以上を占めている。

1970年代から90年代にかけて、和牛の遺伝資源がオーストラリアやアメリカなどに持ち込まれ育てられたことにより、外国産の ”Wagyu” と記された肉も海外に出回るようになった。しかし、これらの牛肉は、日本で生まれ育った和牛とは、飼育環境や品質などが異なったWagyuであることは知っておきたい。

メニューに書かれている ”Wagyu” の文字だけでは、果たして、それが、日本で飼育されたものか、そうでないか、の区別はつかない。より厳密に日本産 Wagyu を求めるならば、日本の産地名をそこに探す必要がある。日本の地名が示すのは、それはその地方の基準に則って飼育された和牛である証だ。日本では、和牛肉を「和牛」として販売するためには、国内での飼育と品種の基準を満たすこと、そして追跡可能な10桁の個体識別番号の提示が必須とされている。

しかし、日本の中で最良質とされる黒毛和牛は、その元を辿れば、兵庫県の但馬牛、という種に行き着く。

但馬牛は、16世紀ごろより、その素晴らしい肉質を人々が認識し始め、その味わいを高めるための多大な努力がなされてきた。しかし、明治後半、より多くの肉身を得る目的で外国種との交配が過剰に行われ、品質が大きく変化してしまった。その事実に気づいた時には、事態は絶滅の危機に瀕していた。しかし、奇跡的に、たった四頭のみ、交配を免れて純血牛として存在していた牛が、兵庫県の小さな村で見つかった。これが、何百年にも渡り、日本で最高峰と言われていた但馬牛だ。

その四頭を大切に保護し、丁寧に継承をした結果、但馬牛は復活を遂げた。今、日本で上質の肉とされている黒毛和牛のほとんどは、この但馬種を源流にもつと言われている。但馬牛は、長年かけて得られた知見に基づく、特別な環境と飼育方法、その稀なる品種の特性から、深みある旨みを持ち、肉の芳香も高く、そして、何よりもサシの融点が他種の牛と比べて10℃程度低い。それだけに、食べた時の脂の口溶けがすこぶる綺麗なのだ。

もし、日本の牛肉の頂点を求めるなら、まずは但馬種の血統をもつ牛であることが非常に大切だ。その中でも、直結の純血を保っているものは、すこぶる少ない。美味なる和牛を求めるなら、まずは、純潔但馬牛であることが必須だ。その上で、究極の美味しさ、最高峰の味わいをとことん突き詰めるならば、最終的には、肥育農家が誰であるか、が、何にも増して、要となる決定的要素だ。

天然の漁や狩猟であっても、誰がその生き物をとるのかは、品質に大いに関わってくる。どの季節に、どの場所へ赴き、どのようにして獲物を見つけ出し、そして、仕留めた後の処理をどのようにして、どのような気持ちで成すか。全ては人の手に委ねられている。ましてや、それが、農場や牧場のように、人の手がさらに大きく関わるとなると、その人物の手に甚大な影響力が生まれる。

そんな、名肥育家が扱う牛の中でも、買い手が肥育家とどれだけの信頼関係を持っているかは、さらに大きな意味を持つ。彼らがどれだけ特別な配慮を施して飼育しているか、雌牛か去勢牛か、経産牛か否か、肥育月数、飼料、肥育環境など、そういった重要なファクターを丁寧に加味し、そして、それらをも超えたこだわりが、最終的に、極稀で、希少な数のみの最高峰の肉質を持つ牛となって誕生する。そこには、人と人とのつながりが大きく関わっている。

そのような世界では、今日明日で仕入れが可能になるような牛は、どこにもない。

麤皮には、日本に数多とある但馬牛の中でも、国内であっても幻と呼ばれるランクの、最高峰の和牛がある。

その一つが岡崎牧場。但馬純血種、雌牛のみ。滋賀県近江にある岡崎牧場は、日本全国の肉を扱う高級店の誰もが、この農家の肉を手に入れたいと願う農家だ。そして、麤皮オーナーの小川光太郎氏は、岡崎牧場と10年以上の付き合いを重ね、現在の牧場オーナーである6代目岡崎氏へ、味わいを見越したリクエストを重ね、共に試行錯誤して肥育を行なっている。そうしてようやく生み出される、稀なる味わいの、麤皮のためだけの肉が創り上げられる。

「特に、私が心を割いているのが、肥育月数です」

と小川氏は言う。

「麤皮では38ヶ月から、長いものだと、60ヶ月肥育された肉を使います。長期肥育を岡崎さんと本格的に試み始めたのは、7、8年前ぐらいからです。当然、コストもかかるし、それだけ長く育てても、必ずしもいい牛になるとは限らないのです。それでも、長期肥育に心を割いて挑戦し続けるのは、その味わいが短期肥育では決して得られないものだからです」

ここ数年、日本の牛肉の世界では長期肥育が盛んに謳われるようになってきたが、このトレンドは、麤皮が作り出したものである。

「長期肥育された牛の肉質は、脂の融点がさらにグッと下がります。口溶けが非常によくなり、食べた時の脂の溶ける滑らかなセンセーションが全く変わってきます。そして、そのサシだけでなく、脂と赤身が融合しあったような、食感。サシと赤身に広がる、非常に奥行き深い旨みがのってきます」

その言葉通り、麤皮の肉は、分かりやすい突出した脂だけがインパクトを持つ和牛とは一線を画す。日本の上質の肉をそれなりに食べてきた人であっても、それまでにない新しい境地を、そこに見ることができる。麤皮の肉には、和牛の中でも特に芳醇な香り、キメの細やかで品のある柔和で滑らかな肉質、繊細な脂、深みと余韻の長い旨み、複雑に層を重ね持つ味わい、がある。

もし、あらゆる食において、特に、日本の素材の最高のものを初めてを口にするとき、人は、そのあまりにも上品で、エレガントな風味、しかし、奥行きのある余韻の長い深い味わいに、静かに驚く。あるいは、もしかすると、その清涼で繊細な軽やかさに拍子抜けするかもしれない。

もし、これまで特に、勢いのある押し出しの強い味わい、言い換えれば、インパクトだけを強調した風味に慣れてしまっていたなら、そのギャップは顕著だろう。

しかしどうか、ワインで考えて欲しい。あなたがもしワイン通なら、極め付けのブルゴーニュは、果たしてそういった大太刀まわりの派手な味わいだろうか…。

年月を重ねた素晴らしいヴィンテージの、希少価値の高い作り手による、小規模な畑から生まれたその珠玉の一杯。そこには、深淵に潜むあまりにも美しい余韻と繊細な風味があるはずで、もし、あなたがそれを認め、好むのであれば、麤皮の肉へも、同じアプローチで接してほしい。

すると、和牛という世界の、新しい扉が開くはずだ。

ARAGAWA ロンドン では、岡崎牧場の他、小川氏が長年付き合いを重ねる、同じく極上の肥育農家から仕入れる肉だけが揃う。但馬純血統の未経産雌牛、長期肥育の肉、そして部位は、極上のサーロイン、フィレ、ランプ、ラム芯、イチボなどが用意されている。

400gの塊で焼き上げられたステーキは、一人分200gの、堂々とした高さのある姿で美しく盛りつけられてテーブルに運ばれる。この分量は非常に食べ応えがある。

これだけの肉を焼くには、当然のことながら、日本有数の焼き手、職人が求められる。

私が、なぜ今、ARAGAWAロンドンで肉を食べたいか、と聞かれると、現在、このロンドン店に、麤皮東京店で40年以上に渡り、肉を扱い、焼きを担ってきた職人・今吉和雄氏が、いるからだ。

職人、とは、その道を極めた人物を指す。

今吉氏については、次章で語る。

【ARAGAWA】
38 Clarges Street
London W1J 7EN

https://aragawa-uk.com

https://www.instagram.com/aragawa_uk/