Restaurant Kei  小林圭シェフ 「極限の一点」

フランス料理・パリ

すざましいまでの繊細さ、極限の一点を追い求める、料理。
胸をえぐられるように、感情の昂る、皿の上の激動、静けさ。

夏が終わり、フランスの国境も解放されて、私がパリへ行くと決めた時、彼の店だけが、まず、頭にあった。

Restaurant Kei   レストラン ケイ

パンデミックに突入する直前、2020年フランス・パリで、日本人で初めて三つ星を獲得したフレンチ・ガストロノミーレストラン。
率いるのは、小林圭シェフ。

フランスにおける三つ星の基準が、世界のどの都市より格段に厳しい事は誰もが承知の通りであり、初のアジア人として彼が成し得た偉業は、フランスにとっても大きな衝撃であった。

日本人では未だかつて、誰もたどり着いたことのなかった境地。2011年3月3日のオープン以来、ここまでへの道は、誰がどのように想像しようとも、決して彼以外の者には、知り得ることのないものだろう。

しかし、小林シェフにとって、三つ星は、あるいは、星というものは、最終目的でも何でもなく、逆に、今ここでようやく、スタート地点に立てたのだと言う。

そして、お話を伺いながら、その言葉が真実なのだと、肌身で実感した。

小林シェフからほとばしり出るエネルギー、迷うことなく見据えてくる鋭い眼光。それは、今から星を狙うかのような若手が持つ、もっと先へ、もっと上へ、という勢いと同類の物だ。


自分でももてあそぶ程に身体の内部から、どのようにしても溢れ出してくる抑えることのできない熱が、ある種のもどかしさが、向かい側に座られている、ほんの数十センチ先から、痛いぐらいにこちらに突き刺さってくる。

いくつかの質問をすればする程、研ぎ澄まされたエッジの鋭さが、ギラギラと輝いて、それでいて、静謐な湖のような、深い水の塊が音もなくそこにあるかのような、そんな、風景をも向こう側に見させてくれる。

「キッチンのスタッフには、厳しいと思われていると思いますよ。失敗することは、死を意味することと同じだ、って、彼らに言うからです」

その言葉を聞いて、私が少し冗談交じりに笑い返した時、小林シェフは、それまで以上に、笑みのかけらもない顔をして、真っ直ぐな目でこちらを見た。

比喩でもなんでもなく、彼にとっては、自分の失敗が本当の死を意味しているのだと、その時気づいた。

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初対面の、最初の10分で、この言葉が当たり前のように彼の口から出た。

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シェフに会う数日前に、私はレストランへ訪れて食事をしていた。

ドアを抜ければすぐ、温かい掌に包まれるようなスタッフの歓迎を受け、心地良さだけを感じながら、テーブル席へ着く。

ソムリエの北山重次さんが、独自の個性でワインの流れをつくってくれる。
率直な物言いで、一見、距離があるようでいて、実はとても情に厚い方。ランチを食べ終えた時、彼のおかげで、すこぶる極上の時間を過ごすことができたのだと、心から感じた。

彼も同じく、ご自分の全人生をかけてこの店に立たれていることが窺える。一つ星の時から、ずっと、小林シェフと伴走されてきた。

ワインのペアリングをお願いし、ふと、小林シェフの料理にワインを合わせるという、ある種、恐ろしい作業をどのようにしてされるのか、非常に興味が湧いてきた。

「これほど難しいことはありませんよ」

その言葉には、真の重みがある。
完璧に完璧を求めて、それを突き詰めた料理の一体どの部分に、ワインの味わいを添えていくのか。。。

なぜなら、小林シェフの料理は、極限まで追い求めた繊細な一点を頂点とする、調和の集合体だからだ。

アミューズで出された”cucumber and miso” に、まず、衝撃を受けた。
酢でマリネされた胡瓜は、どこか日本のお漬物をも彷彿させる仕立てながら、しかし、これ程までに突き詰められた酢漬けはおろか、酢のマリネには、これまで一度たりとも出会ったことはない。仮に、このような素材の組み合わせの一品を、どこかのレストランで見かけた事があったとしても、小林シェフのこのほんの小さな胡瓜は、全く別の次元に存在していた。
透き通るかのような繊細さ、軽やかで華やかな美しさ。まるで、私の口の中の酸度まで見抜かれて調合されたかのような、一糸の乱れもない、鮮烈なバランスだった。いかにして、お酢の胡瓜というひと品がこのような境地にまで達する事ができるのか…。衝撃に、序盤から打ちのめされる。

続く皿々は、正円を描くかのように、流れて行った。

Palamos海老にShrenkiキャビアを合わせた一品。紫蘇、グラニースミス林檎、アールグレーの風味が奏でる、どこにも尖ったものがない、完全なる調和のその中で、唯一、紫蘇がほんの少し主張している。その香りは、人間のある部分を覚醒させるかのよう…。

シグニチャーでもあるレモンの泡を纏った野菜の庭園は、ひとスプーン毎に風味が違っており、その一口であっても、秒差で力強い風味が代わる代わる立ち昇る。

熱をどこまで入れるか、ということが、巧みに計算され、実行された非常に印象的なスズキ。

スコットランドのオマール海老については、さらにこの、熱の絶妙な判断に加えて、トロリとした食感と、香りを浮き上がらせる身の質感までをも保持し、甲殻類という生物の表現の、一つの完成形かと納得させられる逸品。

シェフ自ら何度も牧場へ訪ねていると聞く、100日熟成のスペインGaliceの牛の旨味と香りは、あまりにも突出していて、肉の個性に打ちのめされるかのよう。

和牛の選択もでき、鹿児島のA4を、脂だけではなく肉の旨味も同時に味わう趣向にされている。

そして、デセール。柑橘のスムージーと綿菓子の一皿。これぞフランス、と高らかに声にしたくなる、味わいのレイヤーと調和と溌剌とした軽やかさが、食事の流れの中で、見事に結晶していく。まさに、朝日が水平線から立ち昇るような、あるいは、強い風が木の葉を拐っていく時のような、味わいの移り変わりが、私には、途方もない喜びと感じた。

シェフがこれまで問い続けてきた想いと、そこへ至るまでの長い道のり、戦い、葛藤、迷い、喜び、感動、荒々しさ、美しさ、愛…..それぞれが、集約されて、そこにあった。

それらを口に入れ、

そして、心で味わう。

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Keiで出会う素材は、どんな小さな要素をとっても、すべてがこの地球上の特別な生命であるという、”大切なもの” と感じさせてくれ、その価値が見えてくる。


素材が生息していたこの地球上の、どこかの土地や海にある、

風、

大気、

土、

光線、

水、

海水、

微生物、

温度、

流れていくもの、

湧き上がるもの、

それを素材が自分の中に取り込んで、ある日、漁師さんや、農家さんがつみ取った後、キッチンに運ばれ、お皿の上に美しく盛られた中から、その素材が過ごしてきた日々、年月の中で宿った生命の、その核の名残を味わう。

そのような、一つ一つの、個性の違う素材を数種も、時には数十種も組み合わせる時、気の遠くなるような綿密なつくりが要求される。
小林シェフが紡ぎ出す料理には、0.001ミリものずれも許されない、許していない、いくつもの素材や調味料が複雑に組み合わさっているのに、それぞれに全て意味があり、全てが完璧に調和している。

完全なるシンフォニーの音楽が、最も美しい状態で奏でられた時の、限りない、繊細で、危うくて、ギリギリの極限に挑戦して、あまりにも細い糸のような綱渡りを踏み外す事なく渡り切っている、そのような、料理だった。

それでも、緊張感に苛まれることはない。どこまでも透き通った、霧の中に差しこむ、柔らかい朝光のような、そんな料理。

語り口は穏やかだけれど、熱のオーラが身体全体から発されていて、激しい炎が内側に燃えていることが振動のように伝わってくる、そんなシェフの中から、このような静と柔を備えた料理が生まれてくることに、驚きを持った。

私が訪れた11月末の午後、小林シェフは、カタールへ行かれ、前日戻られたばかりだった。現地で一緒だったのは、フランスと世界を代表する、それこそ、世界に名前の轟く大御所中の大御所シェフ10名と一緒だったという。その中で数日間を過ごされて、小林シェフは、ご自身の進むべき道を再認識して戻ってこられた。

そして、今一度、一番大切にしたいのは、お店に訪れてくれる、一人一人のお客なのだと強く語る。三つ星シェフという肩書ができ、贅沢で特別な待遇を受けようとも、決して、その事は揺らがない、と話す。大きなオファーは、数知れずある。しかし、彼は、店に来てくれる一人一人のお客と向き合うことに、徹底的に、こだわっている。

小林シェフにとって、最も大切なのは、ここに今座ってくれている、それぞれのお客であり、そして、その個々の人が、彼の料理を食べ、Keiで過ごす時間によって、人生が変わってしまう程の、喜びを、何かを、与える事がしたいのだ、と話す。

1時間半にわたるインタビューの中で、幾度となく、”心” という言葉がシェフの口から出た。

”心を満たす時間を作りたい ”

小林圭シェフの料理は、時に、自らの心を写す鏡のようなものかもしれない。

果たして、彼が人生をかけて投げかけて来るものを、自分はキャッチできているか、呼応できているか、感じ取れているか、それらが透けて見えてしまう。

"お客との戦い”と、インタビューの最初に語った言葉の意味は、もしかしたら、お互いのこれまでの人生に繰り広げられてきた、喜びや悲しみ、を、どうやって自分たちは感じ取ってきたのかを、このお皿の上で確かめ合うという、一つの核融合のような反応の時間なのかと思えた。

それが見事に光を散らした時、体験したことのないような、爆発的な感動が、白い陶器の上に立ち現れる。

そんなことを考えていた時、食事を終えた11歳の子供が、近づいてきて、とても美味しかった、一緒に写真を撮って欲しいと言った。
優しい口調で、丁寧に会話を交わすシェフ。
小林シェフにも、8歳の息子さんがいる。
温かい対応に、私も、自分の息子を三つ星に連れて行った時、子供に対してのサービスが整っていたことを話して、そういうお店もいいですよね、と伝えた。
すると、シェフは、

「私の料理は子供には分からないですよ。それを求めてもいませんし」

と、私のいい加減な「子供にも優しいレストランとお料理」、というコメントは、躊躇なく一蹴された。
そして、それは、当然だし、それを意識する必要など、どこにあるというのだろう。

「まだ、感性が子供には育ちきっていないので、私が表現しているものが伝わるには、もう少し、年齢を重ねる必要があると思うのです」

そう話すシェフであるが、話しかけた子供が、きっと、大人になってからも思い出すだろう、素晴らしい時間をこの日過ごしたという事実は、11歳という嘘のない表情からも想像に難くない。

心に訴える時間をつくる、という小林シェフの想いは、子供には分からないと自称されても、しかし皿の上を飛び越えて、すでに子供の内側へも届けられていたと思う。

あるいは、彼という人間そのものが、このレストランには宿っていて、老若男女、そこに否応なしに惹きつけられる人々が、何かを求めて、また、再訪するのかもしれない。

突き詰めると、レストランという価値は、

シェフという人間に、何かが、或るか、無いか。

もしかすると、ただ、それだけかもしれない。

そして、小林圭という人物には、その何かが宿る。

Written by Naoko Shimizu Jeffries  

ジェフリーズ清水直子

Restaurant Kei  (レストラン ケイ)

www.restaurant-kei.fr

5 Rue Coq Héron, 75001 Paris